いま、ここに

子持ちの博士課程学生です。「いま、ここに」生きていくための試行錯誤の記録。

博士論文は何のために書くのか

ふと気づいたこと。

ずっと、この博士論文のために、色々なことを犠牲にせざるを得ないと思っていたけれど、それをひっくり返してみてみれば、こんなに大量の文章を書くという稀有なチャンスを得ていると考えることもできる。

ある本を読んで(この本のことは今度また書きたいと思っているけど、衝撃がすごく大きかったのでまた今度)、筆者がただ歩くだけの行脚の旅を続けて気づいたことがあったという一節を思い出す。

私がやっていることは、確かに論理的思考が必要とされるけれども、ひとつの「書く」という行為に没頭すること。

これによって得られるものは、もしかしたら学位とか、科学的思考とか、そういうことではないのかもしれない。いや、ないと思ったほうがむしろ合点がいく。母国語ではない言語で、300ページもの大作を書くことは、科学的思考を得るのに効率がいい方法とはとても思えない。

効率がいい(と思われる)方法や、今まで犠牲にしてきた(と私が思っている)ことも、博士課程が終わってからいくらでも試すチャンスがある。

では、これで得られるものはなんだろう。それはまだわからないけども、この一つの行為に埋没すること、そこで何かを得られると信じて、今一歩ずつ前に進んでいきたい。

やっぱり自分の形を変えずに生かすことを大切にしたい

ゲシュタルトのセッションを受けてから、自分の思考に前より敏感になった私。

かつ、PhD終わってから何しようかなとぼんやり考える日々。ワクワクしながら考えたいけど、何かそこまでワクワクできない。


この年になってこの気づきは恥ずかしいきもするけれど、私はものすごい勢いで自分にダメ出ししてるし、他の人の言動にすごく影響を受けている。他の人がAをやっているのを見てはAがやりたい、Bをやっているのを見てはBをできていない自分にへこむ…といった具合。

いや、我ながら、これはキリのない不毛な脳内の自己対決だよなという自覚あり。

そんな時にこの記事に出会って色々腑に落ちた。

todai-umeet.com

自分の形を変容させようとせず、自分の形はそのままに、自分を喜ばせながら生きていくことが、結局のところ自分という資源を社会に貢献するように使える一番の近道なのではないかと思う。
ここでいう「自分の形」とは自分と社会の境目の、自分の輪郭のようなもの。皮膚の内部は自分で、その外は社会の空気。内部で起きていることは他の誰にもわからないけど、自分にはわかる。definitionとかidentityのようなもの?

 

だからやっぱり、まずは、自分の内部を理解することに注力していくべきだなと思ったのでした。何かもうちょっと、内なる力みたいなものを発掘したい!

 

疲れが止まらない一歳児の母、40歳

先日こどもが(いつの間にか)1歳2か月になりました。

この1か月程度、こどもの体調も私の体調も不安定でがたおち。

疲れが止まりません。

漢方飲んだり運動するようにしてみたりしてるんですが、効果を感じることはできず。

睡眠も浅くて十分取れません。

一体どうしたらいいのか、お手上げ状態です。夫もだいぶ家事・育児を手伝ってくれていて、どちらかというと二人で共倒れ状態。

これに二人目妊活など加わって、精神的プレッシャーもあるし、この1か月は体調も精神面もダメダメでした。

どうしたらいい状況に持っていけるのかなあ~。ああ、疲れた…。

(こういうこと書くと疲れをとるサプリなどの広告が出るんだろうなあ)

 

「キレる私をやめたい」

家の中で頭に来て、物を投げて賃貸の壁に穴をあけること数回。

困ったな~と思って手にした本が「キレる私をやめたい」(とここでAmazonのリンクなど貼ればいいのでしょうが、めんどうなので興味のある方はググってください)。

ゲシュタルト療法で症状がよくなったとのことで、興味を持って調べて、実際に受けてみることにしました。

今のところ2回受けていて、今日これから3回目に行ってきます。

 

ゲシュタルト療法自体の細かいことは、上記の本や、関連の本を参考にしていただくことにして、私の印象は「面白いな~」ということ。なんというかカウンセリングとか精神療法というと、湿っぽい、なんとなく後ろめたいような、そんな雰囲気があるものですが、ゲシュタルト療法はアクティブで、明るくて、前向きな感じがします。

グループワークショップが成り立つのもわかるような気がします。

 

4月から保育園が始まって子供と離れる時間が増えたことも影響しているのでしょうが、だいぶ症状は落ち着いていて、ああ~ゲシュタルト療法のおかげかも!素晴らしい!と思っていたら、2日前からまたイライラが…!!

今朝はとうとう家の中にある椅子を投げてしまった。椅子ならまだしも(椅子ごめん)、椅子を投げつけた玄関の床に穴が開いてしまった。

最近朝の一人散歩をしていないからかなあと思って今朝実践したのだけど。散歩のときには慈悲の瞑想をしていて、その時はああ夫に優しくしよう、と思うのだけど。家に帰るととたんに文句ばかりが頭の中をめぐってしまう…。

 

今日のセッション、どうなるかな。キレない私になりたい。

二人目妊活を再開 さわやかな気持ちで続けたい

子どもが1歳になって、帝王切開から1年とされていた避妊期間が終了し、二人目妊活を再開した。

私は約2年前に体外受精で一人目を授かったので(ちなみに妊娠したのは38歳、出産は39歳と半年)、その生殖医療クリニックへの通院を再開した。

当時は治療がすごくつらくて、ホルモン値の検査の結果が出るたびに、ああ、私の体って見た目より年老いているんだ…、と落ち込んでいた。いや、ほんと、つらかったな。

先月、久しぶりにそのクリニックを訪れ、居心地のよいインテリアに囲まれアロマも炊かれている待合室で感じたのは、「あれ、ここってこんなにいい気が流れている場所だっけ?」ということ。医師やスタッフの面々もなぜかみな優しく見える…。

ものごとの見え方は気持ちのありようということを痛感した瞬間。

 

前回の体外受精の時に、苦労して3回採卵をして、やっとの思いで4つの凍結胚を確保。一つ目を移植して、ラッキーなことに今のこどもが生まれた。なので残り3つの凍結胚がある。早く彼らをお迎えに行きたい気持ちでいっぱいなのに、なぜか今周期はタイミングを試してみたいという『魔』が差して、今回はタイミングを試す予定になっている。この件について「なんで今周期から移植にしなかったんだろう」とずっと落ち込んでいたけれど、昨日夫にそのモヤモヤを話して聞いてもらえて少しすっきり。

 

今日は排卵時期を確認するための診察。サクッと一人で行ってくるつもりが夫の希望で家族3人で受診(どうもこどもを担当医に見せたかったらしい。おやばか)。一緒に採血結果を聞き、新たな、さわやかな気持ちで二人目妊活を再開する気持ちになれた。

一言でいえば、採血の結果はあまりよくなかった。トホホ。前もよくなかったよな。何よりビタミンDが低かったのに驚き。でもだからこそ、これから体作りも含めて頑張ろうと思えたのかも。

 

ということで、これからは食事、運動、精神、様々な面から自分を整えていこうと思います!もちろん博士論文も続けるし、今まで以上に時間の使い方、目の前と足元の幸せを感じることに注力していこう。

 

 

優柔不断ですが、決断に時間がかかるのはおそらく悪いことではない

私はずっと優柔不断な自分が嫌いでした。

進路や進学、昔々同棲していた彼と結婚するか別れるか、などなかなか決められませんでした。で、迷うのはすごく疲れるし、しょっちゅう後悔するし、迷わない、後悔しない自分になりたい!と思い続けていました。

 

そこで、脱・優柔不断のため「直感」を大事にすることを試みていたのです。

『ほんとう』の自分が欲していること、正しいと思っていることを、感じ取ること。

そのために少し静かな時間を取って、瞑想してみたりして。

あるいは、パッと決めることにこだわってみたり。

 

しかし、今日突然、もしかしてこれ違うのでは?と思いました。

 

だって、直感で決めてもうまくいかない。

きちんと情報を整理したり、将来を冷静に予測すれば、もう少しマシな決断ができたのではないか、もっとよく考えればよかったと後悔していることがいくつかあります。

決断の中に、直感で決めたほうがいいことと、きちんと情報を整理して合理的に決めたほうがいいことがあるように思います。

そして、たぶん、『ほんとう』の私は、情報を集めて、よく考えて、合理的に決めたいタイプ…。だから直感に頼ってもうまくいかなかったんだな。

 

なので、これからは脱・優柔不断を脱して、自分が考えたいだけ考えて決めて行こうともいます。そしてそれに対して罪悪感を感じないことが大切そう。

そもそも、私が上記にあげた決断に時間がかかった事項って、そりゃあ重大な決断ですぐには決められないわな!ってことばかりじゃありません?

迷うことによる疲れって、「ああ~、今、私、迷ってる!迷ってる私はダメだ!」という自分へのセルフ叱責によるところが大きい気がするんですよね。

 

ということで、これからは思う存分悩むぞ~!

そう思ったら急に楽になってきた!うふふ。

本当のまなび

先日、イギリスから一時帰国した友人であり先輩ご夫婦とお話する機会がありました。
ご主人は長年刑務所で受刑者の教育に携わってこられた方で、お友達は認知症ケアのright-based approachの専門家。
 
初めてお会いしたご主人はretireされて静かな生活を送っておられるのですが、その優しさと含蓄に溢れる発言の中に、まなぶべきことがたくさんありました。
 
私は、権威のあるものや人から学ぶことに意味があるようにと無意識のうちに思っていた気がします。本当に含蓄のある言葉は、このように世の中の端っこのほうにあるのではないかと思いました。
 
本当に学ぶことはどこにあるのか、自分はどうありたいのか、改めて考えるきっかけになりました。
そして私はやっぱり優しい人間でありたいと、改めて思いました。